最近、Zoomの対話会で死について話したんですけどね。そこでちょっと思ったこと。

死ぬまでにやり残すことのないように、後悔することのないように。。。まあまあ、よく聞く話でね。
僕もあまり話を深めたくもなかったのでフンフンと聞いていました。

本当にそうだろうか。それだと問題が二つある。

  1. 死ねない
  2. 仕事が出来ない

やりたいことは次々に出てきますから、やり残さないとなると死ぬ時期がどんどん延びちゃう。
死ぬ時期をある程度見てしまうと、それまでに出来る分の仕事しか出来なくなる。

まあ、いつ死ぬかは分からないわけですが、確実に言えるのはあと50年も生きていないだろうしね。

自分という「もの」に目を向けると、確かにそういうことになるんだろうと思うんですね。
でも、自分って何だろうと考えてみるとね。

量子論では、エネルギーの流れのちょっとした揺らぎや重なりが「もの」なんだって。
そうすると「エネルギーの流れ」に目を向けてみるということも考えられるね。

エネルギーの流れのある部分に「私」がいる。と考えると。
「私のやりたいこと」がまずエネルギーの流れとして有ってね。そこにたまたま私が居る。
そうすると、「私」はその「私」の部分を担えば良いのであって、「私」が死んでも、あるいは離れても「誰か」が跡を継いでくれるだろう。
そんな気がするんですね。

以前は、「自分でないと出来ない」みたいな意識が有って、自分がやることにこだわっていました。
「余人に代えがたい」と言うところに自分の価値を見出していたと思うんですね。

でも、本当にそうだろうか。

僕の好きな話の一つ。このブログでもどこかに書いたと思うのですが。
ある人がお茶を点てていた。
「何をしているのか」
「お茶を点てているんじゃ。お茶を飲みたいという人が居っての」
「その人にやらせれば良いじゃないか」
「いや、たまたまそれがしが居たからの」

自分でないと出来ないと肩の力を入れなくても、いや、そこに自分が居たんだと。
そう思うと、もっと気軽に大きなことに取り組めると思うんです。
もし、それに価値があれば、他の人が継いでくれるだろうし、他のところでもやってくれるだろうし、「私」にこだわることは何もありません。

寿命を越えて、無限大のことにも取り組めるかも知れません。

仏様は、自分の教えは筏のようなものだと仰っています。
向こう岸に着いたら捨てなければならない。
私という存在も、そういうものなのかも知れません。

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