ニーチェは、「ツァラトゥストラ」の中で人の成長段階を「ラクダ ライオン 幼子」と表現しています。

ラクダは「汝なせ」ライオンは「我欲す」幼子は「然り」

ラクダは外からの声に従い、耐えて進む姿。
ライオンはそれらを撥ね除け、戦い、自由を獲得しようとする姿
幼子は戦いを乗り越え、対決すること無く受容しつつ、自らの価値観を創造する姿と言えるでしょう。

その時、「私」はどこに居るのかと考えると。

ラクダでは「私の外」ライオンは「私の中」そして幼子は「私の皮膚」に居るんじゃないかと僕は思っています。

ラクダは私の外に私を見つけていない。外にある物に私が動かされている。つまり私は私の外に居る。
ライオンは私の中に私を見つけ、その私を守ろうとし、外からの声を「否」と拒絶する。つまり私は私の中に居る。
幼子は私の外からのメッセージに触れ、それを「然り」と肯定する。メッセージを主体的に受け取り楽しむことが出来る。

「皮膚」というのは、私から見れば私のものであり、外から見ると外の物でも有る。
そこに「居る」と言うのは、「私」からも「外」からも自由であり、「私」からも「外」からも繋がっている。

自己組織化が起こるというのは、そういうことではないか。私が「私の中」でも「私の外」でもなく、「私の皮膚」に居ると言うことでは無いか。

そんなことを考えています。

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